昭和49年06月23日 朝の御理解



 御理解 第26節
 「信心に連れはいらぬ。一人信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れが入ろうが。皆、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」

 大変難しい内容を持った御理解だと思います。信心に連れはいらぬ。どう言う様な事だろうかと。私は思うんですけれども、問題は私自身が助かる事だと。人ではない、私自身が助かる事だと。私自身が助かる為にの信心です。そう言う様な事じゃないかと思うんですね。それは自分のいわゆる信心に連れなどいろうはずがない。いわばしょう事なしのものではない。自分が打ち込むが、自分が本当に解らなければ、自分がおかげを受けなければ助からんのだから問題は私自身ね。
 皆さん一人一人が助からねばならないと言う事だと、この様に思うんです。先日御本部から送って参りましたパンフレットに、ある先生が書いておられるのを、読ませて頂いたんですけれども、やっぱり、今私が申します様なことを言っておられる。問題は自分が助かる事だと。所がね、それではいけない、それでは矢張りいけない、人を助けつつ自分も助かって行かねばならない。と言う事に気が付いたと言う様な事が書いて御座いました。自分がね、自分が助かる事。
 とやっぱりここまでしかし思いが至ると言う事は、ある意味素晴らしい事なんです。もうしかも金光様の先生、取次者がですねもう問題は私自身が助かる事だと、思いがそこに至るまでには、随分のやはり時間がかかっていると思うですね。自分は助かっとらんでん、お参りして来る信者を助けて下さいとこうね。とこう言う様な所から所がそれではいよいよい助からん。いくら願っても助からん。そこでこれはもう自分が助かる以外にはないんだと、気が付くと言う所は、ある意味で時間が掛かっていると思うです。
 所がですなら自分が助かる事に精進したけれども、それでもいけない事に気が付いたと、それで自分も助かりつつ、人が助からねばならないと言う様な事は、これは信心に連れがいると言う事です。私はそこを読ませて頂く時に、ああ惜しいなあとこう思ったんです。問題は自分自身が助からねばならない、と一つ本当に自分自身が助かってしまうと言う事だけれども、この生きかたで行じれば、もう絶対に助かるんだとと言う物を頂いたらです、もうそれで良いのです。ね。
 今合楽で言われている真善美の世界。それは神様の願い氏子に願いとされれる世界。そこには神様も助かって行かれなさり、又は氏子も助かって行かれる世界、言い変えると和賀心の世界極楽の世界。だからもうここを頂く以外にはないんだと。そこに例えば愈々真の反対の嘘のものを、自分の心から取り除いて行く。自分の心の中にある、善でない反対の悪の心と云う物を愈々すっきりと取り除く事に精進する。
 愈々限りなく麗しゅう美しゅうなって行く、醜悪な言わば見苦しい、言うなら美的感覚と言った様な物をです。愈々自分の中に養うて行く。言うならば嘘のない世界悪のない世界、汚い物のない世界。それをまず自分の心の中に頂いて行くというのである。昨日の御理解を借りるとです。そういう信心から貧乏のない世界、病気のない世界争いのない世界、が生まれて来るです。ですからそういう助かりを求めてです。もう信心はここに極まったと云う生き方を、そこにおいてです。
 いよいよ真善美の信心を目指さしてもらう。愈々和賀心を追求させてもらうと言う事になって来る所にです。自分のその稽古の次第がです。自分の助かって行っておる姿というか、自分の心が助かって行っておる、それに気付かせてもらうです。自分が言わば有難うなって来るです。自分が楽になって来るです。成程これで良いんだ、行くより以外にない。いやこれより他にないんだ、この様にして自分が助かって行く以外にはないんだという生き方にはです。
 人を助けつつ自分も助かって行かなければいけないと言うような中途半端な中には、人が第一助からんです。それでは大した事は助からん。自分が愈々助かりをその様にして求めて行く時にです。その助かりには、人が付いて来るです今度は。連れはいらんのですけれども、もう付いて来るんです。人がその信心に憧れて来るです。だから連れは要らんけれども、付いて来るから付いて来る者がまた、皆んな助かる訳なんです。そういう信心をさせて頂いておると最後の所にある、日に日に生きるが信心なり。
 と言った様な事の内容の、これは深い事ですけれども、それが解って来ると思うです。成程、日に日に生きるが信心だなと、これは、例えば自分が助かって行きつつある、しかも、絶対のもの、間違いのないもの、いわゆる神様の願いとされる願いに向かって、自分が一歩一歩近づいて行きよらなければ、ここを感得出来る事じゃない。日々生きるが信心なりと言う事やらは。
 昨日尾道の阿部先生から、先日のお礼の手紙が長々と、しかももうどんな言葉で表現しようか解らんと言う様な感じかね、手紙の中に出ているのです。どんなに言うて讃えたい。どんなに言うてお礼言うて良いか解らんという感じ、書いてはまた書き書いてはまた書きといった。もうこれでおしまいかと思うとまた書いておられる。それをどう最後に何とか纏めたいと言うのが、私と同じであまり学問がありなさる訳じゃない。
 中々字も判読せにゃ読まれない様な感じですけれども、読み取れない所もありますけれども、『親神の深き恵みに包まれて(判読できない。包まれてと書いてある様に見える) 光輝く 合楽の里』と書いてあります。もうどんこんいい様がない。だからそこに教祖様じゃないけれども、歌人なら詠も読もうにというのです。もうこれは詠の心得のある方の詠とは思われません。
 けれどもこれはやはり詠の言葉、詠風に書いたら結局こういう風になる訳なんです。『親神の深き恵みに包まれて?光り輝く合楽の里』もうこれからもどうぞよろしくお願いします。というその合楽に対する憧念の心が、もうそれこそラブレターの様な感じで書いてあります。合楽とどうでも交流したい。これからもどうぞ合楽の信心を信者一同が身に付けて行きたい。信徒会長からも、一緒に昨日届きましたが、これも大変、ここで御信者さん方が真心にふれて、大変な感動であったという。
 まあだいまだに合楽での感動が覚めやらない。もう合えば合楽の話がでておると言う様な手紙が来てます。これは私がです私が助かりつつ人を助け様等と思うた事がない。私はもう限りなく私が助かって行く以外にないんだと。「この方は人が助かる事さえ出来れば」とおっしゃったことがです。教祖様のことば。人を助けるためにと言う事です。教祖様自身が、愈々お助かりになると言う事だと私はと思うです。
 言うならば私が愈々光り輝く、愈々助かって行くと言う事になります時にです。その光り輝く物に付いて来にゃおられない、あぁあの合楽での言わば日々がです。ああいう生活というか、あれがいうなれば、真善美の世界であろうか、極楽の世界であろうか、と言う事になる程しにおかげを頂いて行く事なんです。それには皆がです。所謂憧念の心を燃やして、連れはいらんというても連れは付いて来る。昨日は田主丸のむつやさん所の、恒例の宅祭りでした。
 本当にあの石井信司郎さんの所の宅祭りというよりも、矢張りむつや呉服店の謝恩祭という実感でしたね。段々おかげを頂いて、もう若い者ばっかりですけれども、もう何とはなしに、昨日は、やはり五十名からお参りがあっとりました。あそこ一杯でした肝心要の信司郎さんはここ四、五日具合が悪くて熱発している。とにかく私が行った時もずうっと寝ておりました。それでもまあおかげを頂いて、本当に有難いお祭りでしたが。神様の願いと云う物が大きければ大きいだけ。
 神様の思いが深ければ深いだけ、又はあちらのお母さん達の霊様の願いにしておられたその願いが、純粋であればあるだけその願いが、今日むつやに現れないはずはないと思うです。ですから神様も矢張り大きなおかげを、大きなというか尊いというか、本当の意味においてのおかげをです。所謂真善美の世界というか、そういう例えばお店を願って神様は下さってある。為には中心におるなら人物がです。真でなくて嘘であり善でなくて悪であり、美ではなくて汚いでありという様な所は。
 おかげになりませんから、どうぞ真になってくれよ善になってくれよ、美になってくれよという神様の絶えずそういう願いが、様々な問題の上に現れて来る訳です。ですから、色んな意味で窮屈な思いをすると言う事は、丁度大きな鯛であり、大きな鯛である程にです。絞らなければお供えが出来ないでしょう。小さいこげな鯛かなんかならね手のひら位の鯛ならば絞りも何もいらん。けれどもそれが大きないわば鯛であればある程にです。それは絞らなければ神様の前には、御三宝には乗らんのである。
 その絞られておる事をいとうてはならんのです、信心と言う物は。信心しよってどうしてこんなに窮屈な思いをするじゃろうか、どうして苦しい思いをするであろうか、と言うたんでは信心にならんのです。今こそ神様の前に供えられとる自分が、神様の願いが大きいからこそ、こうやって絞られとるんだという事が解らせてもらう。そこで神様がです。様々な今度の宅祭りの様な有難いお祭りを、あれ程の思いを込めてしておるのにもかかわらず、自分が頭が上がらないという様に。
 具合が悪いと言う事は、いかに修業不足をそういう形において、修業さしておられる、求めておられるかと言う事が解る。そこで病気をしたり、金が足りんと言った様な事で修業をするより、そういう窮屈な修業するよりも、自分で信心の節度を作って、一日の内に、例えば一時間なり二時間なりをです。神様の方へ捧げるという。ならお参りならお参りの時間にする。そういう修業なら有難い。病気もせんでよい。
 金が足りんでという様な事もない。いうならば自分が求めての窮屈な様は、自分と言う物をいうならば修業の方へ自分で持って行くというかね、自発的な修業という。神様がさせなさる修業じゃなくて、自分が自発的にその修業をさせて頂くと言う事に成る時に、病気をせんでもよか、金が足らん足らんと言わんでもよい様なおかげを頂くのだと私は昨日話したんです。だから、それに気付かなければならない。そうしてならこんな事ですから、どうぞお願いしますというお願い信心からです。
 そうした日々のいうならば、信心修業の中にただ今申します、真善美を求めてああこんな真のない事ではいけない、こんな悪の心ではいけない、こんな汚い心ではいけないと言う事に気付いて、そういう修業をして行くと言う事。そこにそれが解きほどかれた時が、本当の極楽の世界なのです。窮屈な世界ではいけない解きほどかされる。それはどう言う事かというと、信心の修業がお参りが朝参りが、楽に嬉しゅう楽しゅう出来る様になると言う事そこにはね。それこそ窮屈ではなくいうならば。
 病気のない世界貧乏のない世界、争いのない世界が顕現されて来る。と昨日そんな話をさせてもらったんですけども、まさにその通りだと思うです。そこにはねそれこそ信心に連れは。いうならば今人材がなかなか寄らん。大きな仕事をすればする程、集まらないとけどそういう中心が信心さえしていけばです。それこそ適材適所、必要な人は必要な人がです。それに付いて来る様なおかげが頂けれると私は信じます。
 信心に連れはいらぬと言う事は、自分自身が、真実助かる以外にはない。と気付かせてもらい解らせて貰う事だ。その例えば気付いてです。例えば見当違いの所に信心をもって行くから、自分が何時までたっても助からん。そこで今度はああこれじゃいかんばいの、やっぱ人を助けつつ助けて行かにゃいかんばいの、それでは大した比礼にはならんと。問題は自分自身が純粋、自分自身が本当に心の上の助かりを願い、求めて行くならばです。その心の助かりには人が付いて来る。
 物が付いて来る金が付いて来る、健康が付いて来る。いうなら合楽の条件いうなら極楽の条件が足ろうて来る。まずはだから信心に連れは要らぬと言う事は、お前も参らんかと言う事もなにも要らん。自分自身が助かる事の為だから、人にだん言われん。私自身が助かりさえすれば私が助かる。その助かっとる風を見てです。私も連れて行ってくれとこういう。連れは要らんけれども、連れは付いて来るというおかげを頂かなければ、本当のおかげにはならんと思いますね。
   どうぞ。